北斗信仰をめぐる ――平将門北斗七星めぐり
2023.11.12
日曜日なのでお出かけしたいが、予報が思わしくない。
山歩きはちょっとキビシイが、街ならどうだろう。
朝、目が覚めてふと思い浮かんだのが、“平将門北斗七星めぐり”。
ストンと落ちてきた感じで、これは天の声じゃなかろうか。
調べてみると――
939(天慶2)年11月、平将門は常陸・下野・上野を攻め落とし関東を制覇。朝廷に反旗を翻し自らを新皇を名乗る。
11月は平将門の乱。
ちなみに、ゆかりの地・茨城県坂東市では毎年11月の第2日曜日(つまり今日)、「坂東市将門まつり」が開催される。
北斗七星めぐりとは、平将門にまつわる神社が都内に7つ、北斗七星の形に配置してあり、一日で全部めぐればご利益にあずかるというもの。
将門が信じたとされる妙見信仰に由来しており、それは北斗七星を“妙見菩薩”として神格化し、天之御中主大神、鎮宅霊符神として崇めた信仰である。
いわば都市伝説のたぐいだが、スタンプラリーが行われたりもしているらしい。
今回めぐったルート:①鳥越神社、②兜神社、③将門塚、④神田明神、⑤筑土八幡神社、⑥水稲荷神社、⑦鎧神社 © OpenStreetMap contributors
七福神めぐりもそうだが、信心やご利益というより、歩いたら面白そうだという純粋な街歩き的好奇心に突き動かされている。
対象が寺社なだけに、どっちが純粋で、不純か… 微妙なところではあるが。
ということで、ちゃちゃっと計画を立て……
10:34、御徒町駅到着。

北斗七星めぐりは、めぐり順が決められているという(あとで知ったんだけど…💦)
1番目は鳥越神社。

御徒町

日光街道
御徒町駅から20分近く歩く。
地図でざっと見た感じよりこのあたりの縮尺感はだいぶ大きく感じられ、早くもペースが狂う。
途中パラッときたと思ったら、鳥越神社に着くころには本降りに。
いきなり暗雲立ち込める🌨

蔵前橋通り(左が鳥越神社)
鳥越神社
東京都台東区鳥越2-4-1
https://www.facebook.com/torikoej/?locale=ja_JP



日本武尊を祭って白鳥神社と称したのが鳥越神社のはじまりとされる。
伊勢国能褒野で亡くなった日本武尊は白鳥と化し北天(妙見菩薩のもと)へ旅立ったという“日本武尊白鳥伝説”から、妙見信仰=将門と結び付けるなど、やや都市伝説的。
将門の首が飛び越していったので“飛び越え(鳥越)”という説も。

浅草橋
雨が降り続けば撤収やむなきに至るところだが、鳥越神社最寄りの浅草橋駅のあたりで早くも小降りに。
ナントカと秋の空で、こちらも気持ちを切り替えて先へ進む。

左衛門橋(神田川)

甘酒横丁

茅場橋(日本橋川)

東京証券取引所(左)
兜神社
東京都中央区日本橋兜町1-12
https://www.jpx.co.jp/corporate/about-jpx/history/01-04.html



940(天慶3)年、承平天慶の乱で将門を討ち取った藤原秀郷が、首を京都へ運ぶ途中にこの地で将門の兜を供養したとされる。
世界屈指の金融センターとしてその名をとどろかせた兜町の名前の由来にもなっている。
――「兜町」は平将門の兜を埋めて塚にした所を兜山と云ったところから由来しているという。その地に祀られたのが兜神社である。(「日本橋兜町」Wikipediaより、最終更新2023年3月1日23:37 )

日本橋(日本橋川)

日本橋川(常盤橋より)

丸の内
将門塚(しょうもんづか・まさかどづか)
東京都千代田区大手町1-2-1
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/65



ご存じ将門の首を供養するために建てられた石碑。
――平安京でさらされた平将門の首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやりました。その後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説があります。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのです。(「将門塚」千代田区HPより)

近代においても、東京の中心部にあって都市計画上の障害となることから何度か取り壊し・撤去が計画されたが、不審な事故が相次ぐなどして将門の祟りがうわさされ、計画はことごとく取りやめとなっている。
10数年前に一度来たことがあり、そのときはたしかビルにコの字形に囲まれ、オドロオドロしい雰囲気も漂っていたが、西側が開けて明るい印象に変わっている。

神田橋交差点

ニコライ堂
神田明神
東京都千代田区外神田2-16-2
https://www.kandamyoujin.or.jp/



神田神社(神田明神)の神祭は、大己貴命(大黒)、少彦名命(恵比寿)、平将門の三柱。
――平将門命(たいらのまさかどのみこと):まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。(「御祭神」神田明神HPより)
ここでひと休みして、お土産&昼ごはん(→次記事&次々記事予定)。

「神田明神文化交流館 EDOCCO」では将門酒や将門麦酒が売られている

飯田橋交差点
筑土八幡神社
東京都新宿区筑土八幡町2-1
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/shinjuku/5437/



将門ゆかりの神社としては約1.2km南東の「筑土神社」が有名だが、北斗七星の配置? でこちら八幡宮。
築土神社は940(天慶3)年、現在の大手町周辺の観音堂に将門を祀り津久戸大明神と称したのがはじまりとされる。1616(元和2)年に江戸城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地へ移転、以来300年以上の間、両社は並んで鎮座していたが、1945年の東京大空襲によって全焼、築土神社は九段北へ移転し現在に至る。

馬場下町交差点

西早稲田交差点
水稲荷神社
東京都新宿区西早稲田3-5-43
https://mizuinari.net/



――天慶四年(941年)鎮守府将軍、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学九号館法商研究棟)の「富塚」の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と初めは呼ばれる。(「神社の御由緒」水稲荷神社HPより)
俵藤太秀郷とは将門を討ち取った藤原秀郷の別名で、941年は将門討伐の翌年であることから、大願成就によって当地に稲荷大神を勧請したと考えられている。
(過去記事も参照ください)

戸山公園

鎧ガード
鎧神社
東京都新宿区北新宿3-16-18
http://yoroi.or.jp/



――天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。(「鎧神社ものがたり」鎧神社HPより)

職安通り
「鎧神社」の最寄り駅はJR大久保駅だが、僕らの場合は西武線が地元路線なので西武新宿駅をゴールに設定してある。
16:24、西武新宿駅到着。

西武新宿駅
あとでGoogleマップで測距してみると、全工程(御徒町→西武新宿)20km強。
しかしアスファルト路の20kmはかなりこたえる。
途中、神田明神のあたりで癖になっている左股関節痛が出て、かばいかばい歩いていたため飯田橋交差点歩道橋階段で左足ふくらはぎが激しくつる。さらに右ハムストリング痙攣、右坐骨神経痛… と、満身創痍のゴール。
いろいろな気づき(体の悪いとことか💦)がありました。
(つづく)

[DATA]
将門塚
東京都千代田区大手町1-2-1
https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/65
[Today's recommendation]

https://youtu.be/ujnYf2FypEY?si=qwnxG7mt4kx-xSFZ




お土産
日曜日なのでお出かけしたいが、予報が思わしくない。
山歩きはちょっとキビシイが、街ならどうだろう。
朝、目が覚めてふと思い浮かんだのが、“平将門北斗七星めぐり”。
ストンと落ちてきた感じで、これは天の声じゃなかろうか。
調べてみると――
939(天慶2)年11月、平将門は常陸・下野・上野を攻め落とし関東を制覇。朝廷に反旗を翻し自らを新皇を名乗る。
11月は平将門の乱。
ちなみに、ゆかりの地・茨城県坂東市では毎年11月の第2日曜日(つまり今日)、「坂東市将門まつり」が開催される。
北斗七星めぐりとは、平将門にまつわる神社が都内に7つ、北斗七星の形に配置してあり、一日で全部めぐればご利益にあずかるというもの。
将門が信じたとされる妙見信仰に由来しており、それは北斗七星を“妙見菩薩”として神格化し、天之御中主大神、鎮宅霊符神として崇めた信仰である。
いわば都市伝説のたぐいだが、スタンプラリーが行われたりもしているらしい。
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七福神めぐりもそうだが、信心やご利益というより、歩いたら面白そうだという純粋な街歩き的好奇心に突き動かされている。
対象が寺社なだけに、どっちが純粋で、不純か… 微妙なところではあるが。
ということで、ちゃちゃっと計画を立て……
10:34、御徒町駅到着。

北斗七星めぐりは、めぐり順が決められているという(あとで知ったんだけど…💦)
1番目は鳥越神社。

御徒町

日光街道
御徒町駅から20分近く歩く。
地図でざっと見た感じよりこのあたりの縮尺感はだいぶ大きく感じられ、早くもペースが狂う。
途中パラッときたと思ったら、鳥越神社に着くころには本降りに。
いきなり暗雲立ち込める🌨

蔵前橋通り(左が鳥越神社)

東京都台東区鳥越2-4-1




日本武尊を祭って白鳥神社と称したのが鳥越神社のはじまりとされる。
伊勢国能褒野で亡くなった日本武尊は白鳥と化し北天(妙見菩薩のもと)へ旅立ったという“日本武尊白鳥伝説”から、妙見信仰=将門と結び付けるなど、やや都市伝説的。
将門の首が飛び越していったので“飛び越え(鳥越)”という説も。

浅草橋
雨が降り続けば撤収やむなきに至るところだが、鳥越神社最寄りの浅草橋駅のあたりで早くも小降りに。
ナントカと秋の空で、こちらも気持ちを切り替えて先へ進む。

左衛門橋(神田川)

甘酒横丁

茅場橋(日本橋川)

東京証券取引所(左)

東京都中央区日本橋兜町1-12




940(天慶3)年、承平天慶の乱で将門を討ち取った藤原秀郷が、首を京都へ運ぶ途中にこの地で将門の兜を供養したとされる。
世界屈指の金融センターとしてその名をとどろかせた兜町の名前の由来にもなっている。
――「兜町」は平将門の兜を埋めて塚にした所を兜山と云ったところから由来しているという。その地に祀られたのが兜神社である。(「日本橋兜町」Wikipediaより、最終更新2023年3月1日23:37 )

日本橋(日本橋川)

日本橋川(常盤橋より)

丸の内

東京都千代田区大手町1-2-1




ご存じ将門の首を供養するために建てられた石碑。
――平安京でさらされた平将門の首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやりました。その後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説があります。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのです。(「将門塚」千代田区HPより)

近代においても、東京の中心部にあって都市計画上の障害となることから何度か取り壊し・撤去が計画されたが、不審な事故が相次ぐなどして将門の祟りがうわさされ、計画はことごとく取りやめとなっている。
10数年前に一度来たことがあり、そのときはたしかビルにコの字形に囲まれ、オドロオドロしい雰囲気も漂っていたが、西側が開けて明るい印象に変わっている。

神田橋交差点

ニコライ堂

東京都千代田区外神田2-16-2




神田神社(神田明神)の神祭は、大己貴命(大黒)、少彦名命(恵比寿)、平将門の三柱。
――平将門命(たいらのまさかどのみこと):まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。(「御祭神」神田明神HPより)
ここでひと休みして、お土産&昼ごはん(→次記事&次々記事予定)。

「神田明神文化交流館 EDOCCO」では将門酒や将門麦酒が売られている

飯田橋交差点

東京都新宿区筑土八幡町2-1




将門ゆかりの神社としては約1.2km南東の「筑土神社」が有名だが、北斗七星の配置? でこちら八幡宮。
築土神社は940(天慶3)年、現在の大手町周辺の観音堂に将門を祀り津久戸大明神と称したのがはじまりとされる。1616(元和2)年に江戸城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地へ移転、以来300年以上の間、両社は並んで鎮座していたが、1945年の東京大空襲によって全焼、築土神社は九段北へ移転し現在に至る。

馬場下町交差点

西早稲田交差点

東京都新宿区西早稲田3-5-43




――天慶四年(941年)鎮守府将軍、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学九号館法商研究棟)の「富塚」の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と初めは呼ばれる。(「神社の御由緒」水稲荷神社HPより)
俵藤太秀郷とは将門を討ち取った藤原秀郷の別名で、941年は将門討伐の翌年であることから、大願成就によって当地に稲荷大神を勧請したと考えられている。
(過去記事も参照ください)

戸山公園

鎧ガード

東京都新宿区北新宿3-16-18




――天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧もまた当地に埋めたと言われています。また一説によると、将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったと言われます。(「鎧神社ものがたり」鎧神社HPより)

職安通り
「鎧神社」の最寄り駅はJR大久保駅だが、僕らの場合は西武線が地元路線なので西武新宿駅をゴールに設定してある。
16:24、西武新宿駅到着。

西武新宿駅
あとでGoogleマップで測距してみると、全工程(御徒町→西武新宿)20km強。
しかしアスファルト路の20kmはかなりこたえる。
途中、神田明神のあたりで癖になっている左股関節痛が出て、かばいかばい歩いていたため飯田橋交差点歩道橋階段で左足ふくらはぎが激しくつる。さらに右ハムストリング痙攣、右坐骨神経痛… と、満身創痍のゴール。
いろいろな気づき(体の悪いとことか💦)がありました。
(つづく)

[DATA]
将門塚
東京都千代田区大手町1-2-1

[Today's recommendation]

https://youtu.be/ujnYf2FypEY?si=qwnxG7mt4kx-xSFZ




お土産
芸能をつかさどる 【花園神社】
2023.02.17
庶民観光の起源は“おかげ参り”とされ、かつて日本の観光の中心は寺社仏閣だった。
かつて栄えていたものがいまや廃れつつあるという意味で、寺社観光は昭和食堂に通じるものがあるかも…。
このブログで寺社を取り上げる理由は、だいたいそんなところだ。
やってる本人も最近気づいたんだが σ( ̄、 ̄=) ンー…
前記事に続く新宿編で、新宿で神社といえば「花園神社」。
神社初詣参拝者数で東京都10位前後という人気スポット。
特に毎年11月に開かれる「大酉祭」(酉の市)で知られる。




――新宿の街の中心にあり、江戸時代に内藤新宿が開かれて以来の、新宿総鎮守・街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。(「花園神社」Wikipediaより、最終更新2023年3月21日01:15)

内藤新宿とは甲州街道の宿場で、日本橋から数えて最初の宿。
――内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになります。(中略)安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。(神社HPより)
場所柄、このように芸能との結び付きが強く、唐十郎の“紅テント興行”は有名。


実は個人的にも花園神社とは少しご縁があり、某雑誌編集部にいたころ、とあるバンドの七夕ライヴイベントを企画したことがある。
そういうノウハウがなかったのでイベント運営は共催を持ちかけた在京某ラジオ局にお任せしたのだが、“そのバンドで、花園神社で”と具体的に立案したのは、何を隠そうこのワタクシである。
それは新宿の七夕の風物詩とも呼べるハマり企画で、以後、恒例行事として長く続けられたのであった。
知らず知らず新宿の街の文化の一翼を担っていた… のかもしれない(笑)。



今回、ちょっと調べる中で「芸能浅間神社」なる境内摂社の存在を知った。
――敷地内には芸能人の奉納者の名前が多く並んでおり、芸能人との関わりが深い。八代亜紀が1981年(昭和56年)に奉納している社号標の他、敷地内には、藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑が建立されている。(「芸能浅間神社」Wikipediaより、最終更新2022年4月9日06:21)
まさに芸事の神様なのであった。
芸能浅間神社は存在を知らなかったので写真を撮っておらず、次に新宿に行ったときに撮ってこの記事に追加しようかと考えている。
ところで、新宿で“花園”といえば、もう一つ…
(つづく)

次号予告
[DATA]
花園神社
東京都新宿区新宿5-17-3
http://hanazono-jinja.or.jp/
[Today's recommendation]

https://youtu.be/B5uPhrH36rY


庶民観光の起源は“おかげ参り”とされ、かつて日本の観光の中心は寺社仏閣だった。
かつて栄えていたものがいまや廃れつつあるという意味で、寺社観光は昭和食堂に通じるものがあるかも…。
このブログで寺社を取り上げる理由は、だいたいそんなところだ。
やってる本人も最近気づいたんだが σ( ̄、 ̄=) ンー…
前記事に続く新宿編で、新宿で神社といえば「花園神社」。
神社初詣参拝者数で東京都10位前後という人気スポット。
特に毎年11月に開かれる「大酉祭」(酉の市)で知られる。




――新宿の街の中心にあり、江戸時代に内藤新宿が開かれて以来の、新宿総鎮守・街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。(「花園神社」Wikipediaより、最終更新2023年3月21日01:15)

内藤新宿とは甲州街道の宿場で、日本橋から数えて最初の宿。
――内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになります。(中略)安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。(神社HPより)
場所柄、このように芸能との結び付きが強く、唐十郎の“紅テント興行”は有名。


実は個人的にも花園神社とは少しご縁があり、某雑誌編集部にいたころ、とあるバンドの七夕ライヴイベントを企画したことがある。
そういうノウハウがなかったのでイベント運営は共催を持ちかけた在京某ラジオ局にお任せしたのだが、“そのバンドで、花園神社で”と具体的に立案したのは、何を隠そうこのワタクシである。
それは新宿の七夕の風物詩とも呼べるハマり企画で、以後、恒例行事として長く続けられたのであった。
知らず知らず新宿の街の文化の一翼を担っていた… のかもしれない(笑)。



今回、ちょっと調べる中で「芸能浅間神社」なる境内摂社の存在を知った。
――敷地内には芸能人の奉納者の名前が多く並んでおり、芸能人との関わりが深い。八代亜紀が1981年(昭和56年)に奉納している社号標の他、敷地内には、藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑が建立されている。(「芸能浅間神社」Wikipediaより、最終更新2022年4月9日06:21)
まさに芸事の神様なのであった。
芸能浅間神社は存在を知らなかったので写真を撮っておらず、次に新宿に行ったときに撮ってこの記事に追加しようかと考えている。
ところで、新宿で“花園”といえば、もう一つ…
(つづく)

次号予告
[DATA]
花園神社
東京都新宿区新宿5-17-3

[Today's recommendation]

https://youtu.be/B5uPhrH36rY


今年は“来福”で 【放生寺】
2022.12.27
この時期の風物詩に「一陽来復御守」の頒布というものがある。
商売繁盛や出世、開運にご利益がある神社として知られる西早稲田の穴八幡宮で毎年冬至の日に金銀融通のお守りの頒布を始めるという、一種の冬至祭りである。
一陽来復とは、“陰極まりて陽に転ずる”冬至の日を指す言葉で、季節が春に向かうことや運気が好転するといった意味で使われる。
うちでは10年ほど前からこのお守りを授かるようになり、2017年、2018年、2019年と、その模様をブログ記事にしている。
その後コロナ禍で行けてなかったが、今年3年ぶりに行ってみようかと。
ただし穴八幡はやはり混雑不可避とも思われ、あまりにひどかった場合を考え、次の手を用意しておく。

12月27日火曜日14時30分。
仕事納め前の平日午後といういちばんすいていそうなタイミングを選んだつもりだが、穴八幡はすごい混みよう。

右が穴八幡宮西参道鳥居、左の献灯提灯が放生寺参道
ただちに次の手発動。
穴八幡宮の隣のお寺さんでもお守りを拝受できるのでした c( ̄▽ ̄)

放生寺は1641(寛永18)年、穴八幡宮の別当寺として創建された。

――穴八幡宮とは元々不可分であったため、神仏習合の江戸時代に始まった「一陽来復」の札の授与は穴八幡と放生寺の双方で行われている。ただし放生寺の札は「一陽来福」と1文字異なる…(Wikipedia)
ホームページヘッダーには“高野山真言宗 一陽来福創始の寺”とある。

こちらは落ち着いてお参りでき、一陽来福のお札も並ぶことなく拝受することができた。

一陽来福(一陽来復)のお札には独特の作法がある。
家の居間などに、冬至、大みそか、節分のいずれかの深夜0時、毎年定められた恵方に向けてお札を貼らなければならない。
それによってはじめて金銀融通のご利益にあずかることができるというわけだ。

深夜0時…。
それが最大の難関だったりする。このトシになると。
(つづく)

[DATA]
放生寺(ほうしょうじ)
東京都新宿区西早稲田2-1-14
https://www.houjou.or.jp/
[Today's recommendation]

https://youtu.be/YVe0uW_BcvM




次号予告
この時期の風物詩に「一陽来復御守」の頒布というものがある。
商売繁盛や出世、開運にご利益がある神社として知られる西早稲田の穴八幡宮で毎年冬至の日に金銀融通のお守りの頒布を始めるという、一種の冬至祭りである。
一陽来復とは、“陰極まりて陽に転ずる”冬至の日を指す言葉で、季節が春に向かうことや運気が好転するといった意味で使われる。
うちでは10年ほど前からこのお守りを授かるようになり、2017年、2018年、2019年と、その模様をブログ記事にしている。
その後コロナ禍で行けてなかったが、今年3年ぶりに行ってみようかと。
ただし穴八幡はやはり混雑不可避とも思われ、あまりにひどかった場合を考え、次の手を用意しておく。

12月27日火曜日14時30分。
仕事納め前の平日午後といういちばんすいていそうなタイミングを選んだつもりだが、穴八幡はすごい混みよう。

右が穴八幡宮西参道鳥居、左の献灯提灯が放生寺参道
ただちに次の手発動。
穴八幡宮の隣のお寺さんでもお守りを拝受できるのでした c( ̄▽ ̄)

放生寺は1641(寛永18)年、穴八幡宮の別当寺として創建された。

――穴八幡宮とは元々不可分であったため、神仏習合の江戸時代に始まった「一陽来復」の札の授与は穴八幡と放生寺の双方で行われている。ただし放生寺の札は「一陽来福」と1文字異なる…(Wikipedia)
ホームページヘッダーには“高野山真言宗 一陽来福創始の寺”とある。

こちらは落ち着いてお参りでき、一陽来福のお札も並ぶことなく拝受することができた。

一陽来福(一陽来復)のお札には独特の作法がある。
家の居間などに、冬至、大みそか、節分のいずれかの深夜0時、毎年定められた恵方に向けてお札を貼らなければならない。
それによってはじめて金銀融通のご利益にあずかることができるというわけだ。

深夜0時…。
それが最大の難関だったりする。このトシになると。
(つづく)

[DATA]
放生寺(ほうしょうじ)
東京都新宿区西早稲田2-1-14

[Today's recommendation]

https://youtu.be/YVe0uW_BcvM




次号予告
見えざる力の加護 【水稲荷神社】
2022.12.01
お告げ? どおりの大金星にして大勝利🎊
が、見えざる力の加護はそれだけではなかった。

昨日、西早稲田の「水稲荷神社」にお参りしている。
ある種パワースポットらしい。

神社HPには神社の由緒として、
――天慶四年(941年)鎮守府将軍、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学九号館法商研究棟)の「富塚」の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と初めは呼ばれる。
とある。

俵藤太秀郷とは、平将門(903?-940)を討ち取った武人・藤原秀郷の別名。
941年は将門討伐の翌年であり、大願成就によって稲荷大神を勧請したと考えられている。

すなわち水稲荷神社は無敵の武将・平将門討伐に力のあった霊的存在である。
無敵艦隊との戦いの勝利を祈念するのにこれほどふさわしい場所があるだろうか。

…というのは後付けで、実のところ神社の由緒どころか存在も知らなかった。
われながらずいぶんこじつけたものだ r( ̄_ ̄;)

堀部武庸加功績跡之碑
故あって都電早稲田駅近くで食事をし、甘泉園から早稲田通りに抜けようとして、見つけたのが水稲荷神社。

甘泉園の池。水稲荷を含め、一帯は徳川御三卿・清水家の下屋敷であった
この記事も前記事もサッカーのことなどこれっぽっちも考えずに行動しているが、結果的にそのように解釈できなくもない… という偶然の産物、いわゆるセレンディピティ。
セレンディピティとは“こじつけ力”なのである。

神社を取り上げるにしては内容が不真面目とお考えの方もいるとは思うが、いわば自分なりの宗教観。
セレンディピティを大切にすれば、人生が少し豊かになる。
(つづく)

水稲荷へは甘泉園側(裏)から入った
[DATA]
水稲荷神社
東京都新宿区西早稲田3-5-43
https://mizuinari.net/
[Today's recommendation]

https://youtu.be/zCE_aYJNfQo




次号予告
お告げ? どおりの大金星にして大勝利🎊
が、見えざる力の加護はそれだけではなかった。

昨日、西早稲田の「水稲荷神社」にお参りしている。
ある種パワースポットらしい。

神社HPには神社の由緒として、
――天慶四年(941年)鎮守府将軍、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学九号館法商研究棟)の「富塚」の上に稲荷大神を勧請され、富塚稲荷、将軍稲荷と初めは呼ばれる。
とある。

俵藤太秀郷とは、平将門(903?-940)を討ち取った武人・藤原秀郷の別名。
941年は将門討伐の翌年であり、大願成就によって稲荷大神を勧請したと考えられている。

すなわち水稲荷神社は無敵の武将・平将門討伐に力のあった霊的存在である。
無敵艦隊との戦いの勝利を祈念するのにこれほどふさわしい場所があるだろうか。

…というのは後付けで、実のところ神社の由緒どころか存在も知らなかった。
われながらずいぶんこじつけたものだ r( ̄_ ̄;)

堀部武庸加功績跡之碑
故あって都電早稲田駅近くで食事をし、甘泉園から早稲田通りに抜けようとして、見つけたのが水稲荷神社。

甘泉園の池。水稲荷を含め、一帯は徳川御三卿・清水家の下屋敷であった
この記事も前記事もサッカーのことなどこれっぽっちも考えずに行動しているが、結果的にそのように解釈できなくもない… という偶然の産物、いわゆるセレンディピティ。
セレンディピティとは“こじつけ力”なのである。

神社を取り上げるにしては内容が不真面目とお考えの方もいるとは思うが、いわば自分なりの宗教観。
セレンディピティを大切にすれば、人生が少し豊かになる。
(つづく)

水稲荷へは甘泉園側(裏)から入った
[DATA]
水稲荷神社
東京都新宿区西早稲田3-5-43

[Today's recommendation]

https://youtu.be/zCE_aYJNfQo




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観光を考える 【十二社熊野神社】
2022.10.27
最近、神社の記事が多いため、信仰心篤い人間などと誤解されるのも具合が悪いと思っていたところ、新宿からの帰りにたまたま「十二社熊野神社」横を通ったので、お参りしたうえで説明の記事を1本上げておこうと考えた。

5月に「府中市郷土の森博物館」で見た「多摩の観光」という企画展では、東京近郊の景勝地を描いた江戸~昭和期の画帳や観光ポスターなどが多数展示されていた。
その中に「大正末期の京王線沿線案内」というものがあり、沿線の観光スポットが紹介されているが、その多くが寺社である。
高安寺、国分寺古跡、大國魂神社、(府中)八幡神社、布田(布多)天神、深大寺……
庶民観光の起源は“おかげ参り”ともいわれるが、近代に至るまで日本の観光の中心が寺社仏閣だったことをこのポスターは伝えている。
そういうものに興味があり、要するにシンコーよりカンコーというのが、僕のスタンス。

上記“京王線沿線案内”のいちばん右に「十二双」とある。
「十二社熊野神社」のことで、その時代は十二双や十二叢などと表記されていたらしい。

――十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。(神社HPより)
新宿にそのような古社のあることを僕は知らなかった。
境内の説明看板には“江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十二社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました”と書いてある。
まさに観光地だったわけだ。

大滝は1892(明治25)年ごろ、淀橋浄水場の工事に伴い埋め立てられたとある。
もったいない… と思うのである。
いま新宿にそんなものがあったらどれほど人を呼べることか。

このものが栄えていた時代に思いをはせるという意味で、寺社観光は昭和食堂にも通じる。
生物の絶滅スピードは年々加速しいまでは1日100種ともいわれているが、日本の観光資源も同じような絶滅危惧種なのかもしれないなぁ… と。

[DATA]
十二社熊野神社
東京都新宿区西新宿2-11-2
https://12so-kumanojinja.jp/
https://www.instagram.com/junisou_kumanojinjya/
[Today's recommendation]



https://youtu.be/QuakVuFQEds
最近、神社の記事が多いため、信仰心篤い人間などと誤解されるのも具合が悪いと思っていたところ、新宿からの帰りにたまたま「十二社熊野神社」横を通ったので、お参りしたうえで説明の記事を1本上げておこうと考えた。

5月に「府中市郷土の森博物館」で見た「多摩の観光」という企画展では、東京近郊の景勝地を描いた江戸~昭和期の画帳や観光ポスターなどが多数展示されていた。
その中に「大正末期の京王線沿線案内」というものがあり、沿線の観光スポットが紹介されているが、その多くが寺社である。
高安寺、国分寺古跡、大國魂神社、(府中)八幡神社、布田(布多)天神、深大寺……
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庶民観光の起源は“おかげ参り”ともいわれるが、近代に至るまで日本の観光の中心が寺社仏閣だったことをこのポスターは伝えている。
そういうものに興味があり、要するにシンコーよりカンコーというのが、僕のスタンス。

上記“京王線沿線案内”のいちばん右に「十二双」とある。
「十二社熊野神社」のことで、その時代は十二双や十二叢などと表記されていたらしい。

――十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。(神社HPより)
新宿にそのような古社のあることを僕は知らなかった。
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境内の説明看板には“江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十二社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました”と書いてある。
まさに観光地だったわけだ。

大滝は1892(明治25)年ごろ、淀橋浄水場の工事に伴い埋め立てられたとある。
もったいない… と思うのである。
いま新宿にそんなものがあったらどれほど人を呼べることか。

このものが栄えていた時代に思いをはせるという意味で、寺社観光は昭和食堂にも通じる。
生物の絶滅スピードは年々加速しいまでは1日100種ともいわれているが、日本の観光資源も同じような絶滅危惧種なのかもしれないなぁ… と。

[DATA]
十二社熊野神社
東京都新宿区西新宿2-11-2


[Today's recommendation]



https://youtu.be/QuakVuFQEds