古河藩重臣のための屋敷 【鷹見泉石記念館】
2023.09.20
NHK朝ドラ『らんまん』が来週最終回を迎える。
植物好きとしては放映開始前から楽しみで、「牧野記念庭園」を訪れたりしていたわけだが、ドラマの本筋以上に面白かったのが“八犬伝好き”という主人公妻のキャラクター設定。
牡丹のあざの化粧シーンで一発でハートをわしづかみにされた、“新八犬伝世代”ド真ん中なわしら。
今年3月21日朝、6時のニュースからの流れで連続人形劇『新八犬伝』のアーカイブ放送が始まり、「早起きは三文の得!」などとガッツリ視聴してその日の高尾山行きが遅れ、駐車料金で1000円ほど損をこく。
そればかりか「高尾山やめて古河に行くというのはどうだろう?」等の不規則発言を繰り返していたともいわれる。
それほどわれわれ世代を魅了してやまない『新八犬伝』とは何か…? は調べてもらうとして、なぜ古河か。
古河は滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』の舞台の一つ。
古河御所(古河城)内の利根川に面して築かれた3層の物見櫓“芳流閣”(架空の設定)の屋根上で八犬士の犬飼現八と犬塚信乃が相まみえる“芳流閣の決闘”は、八犬伝屈指の名場面とされ、歌川国芳や月岡芳年など多くの絵師がこの場面を題材にとった作品を残している。
八犬伝といえば古河、古河といえば八犬伝なのである。
ちなみに犬飼現八こそが頬に牡丹のあざの人物であり、犬塚信乃は八犬士でも断トツの人気キャラである(館山市立博物館「南総里見八犬伝総選挙」中間発表参照)。

最近読んだ児童向け『南総里見八犬伝 全4巻』(滝沢馬琴〈著〉、浜たかや〈著〉、山本タカト〈イラスト〉、偕成社、2002)
春のお彼岸から秋のお彼岸へと季節は移ろう。
古河は相方の実家に近く、実家のついでみたいな展開にならざるを得ず、なかなか機会がなかった。
古河城は平安末期または鎌倉初期の築城とされ、室町時代に古河公方・足利成氏が本拠として以降、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに将軍の日光社参時の宿としても機能したが、明治の廃城令により廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川改修工事により残された城跡も大半が消滅。
遺構としては、頼政神社(錦町)、桜町曲輪北側土塁(桜町)、古河歴史博物館(出城(諏訪曲輪)跡)(中央町)、福法寺山門(中央町)、坂長(中央町、次回掲載)などがある。

古河歴史博物館の駐車場に車を止める。

まだまだ残暑厳しく遺構巡りは難しそうだが、今回は下見ということで。
歩き始めてすぐ、武家屋敷風の板塀と長屋門が出現。

「鷹見泉石記念館」とある。
“入場無料”とも。

母屋は竹林に囲まれた藁葺きの趣ある武家屋敷である。

鷹見泉石(1785-1858)は江戸時代の蘭学者であり、家老として藩主・土井利位に仕えた古河藩士。譜代大名として代々幕府の要職を歴任した藩主に近侍して全国各地へ同行し、職務の補佐に務めた。
対外危機意識の高まる幕末、早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努めた。
また、主君・土井利位が雪の結晶を観察してまとめた『雪華図説』の編集にも携わる。

――鷹見泉石記念館は古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家と伝わります。建物は寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の御三階櫓を造ったときの余材を使って建てたと伝えられます。もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものでした。(古河市HP「鷹見泉石記念館」より)



1990年、改修して「鷹見泉石記念館」として開館。
現在はお茶席、雛飾りや5月人形などの飾り付けのほか、映画・ドラマ・CMの撮影などにも活用されているようだ。

勝手口を出たところにある井戸の向こうに塀と門があり、その先は別施設となる。
(奥原晴湖画室「繍水草堂」👇へつづく)

[DATA]
鷹見泉石記念館
茨城県古河市中央町3-11-2
https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/soshiki/rekihaku/kinenkan.html
[Today's recommendation]

https://youtu.be/Qggz2aunXMc?si=_DwJwJOPYBe5a96L


古河出身の女流南画家
2023.09.20 奥原晴湖画室「繍水草堂」/茨城県古河市中央町3-11
https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/soshiki/rekihaku/seikogashitsu.html

奥原晴湖(1837-1913)は古河出身の南画家で、東京上野や埼玉県熊谷などを活動の拠点とした。


晴湖没後、主を失った画室は、晴湖のおいに当たる池田多喜雄氏によって誕生地である池田家の屋敷地内に移される(1929年)。2008年、晴湖の子孫に当たる故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄付申し入れがあり、歴史博物館南側に移築された。
(つづく)

NHK朝ドラ『らんまん』が来週最終回を迎える。
植物好きとしては放映開始前から楽しみで、「牧野記念庭園」を訪れたりしていたわけだが、ドラマの本筋以上に面白かったのが“八犬伝好き”という主人公妻のキャラクター設定。
牡丹のあざの化粧シーンで一発でハートをわしづかみにされた、“新八犬伝世代”ド真ん中なわしら。
今年3月21日朝、6時のニュースからの流れで連続人形劇『新八犬伝』のアーカイブ放送が始まり、「早起きは三文の得!」などとガッツリ視聴してその日の高尾山行きが遅れ、駐車料金で1000円ほど損をこく。
そればかりか「高尾山やめて古河に行くというのはどうだろう?」等の不規則発言を繰り返していたともいわれる。
それほどわれわれ世代を魅了してやまない『新八犬伝』とは何か…? は調べてもらうとして、なぜ古河か。
古河は滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』の舞台の一つ。
古河御所(古河城)内の利根川に面して築かれた3層の物見櫓“芳流閣”(架空の設定)の屋根上で八犬士の犬飼現八と犬塚信乃が相まみえる“芳流閣の決闘”は、八犬伝屈指の名場面とされ、歌川国芳や月岡芳年など多くの絵師がこの場面を題材にとった作品を残している。
八犬伝といえば古河、古河といえば八犬伝なのである。
ちなみに犬飼現八こそが頬に牡丹のあざの人物であり、犬塚信乃は八犬士でも断トツの人気キャラである(館山市立博物館「南総里見八犬伝総選挙」中間発表参照)。

最近読んだ児童向け『南総里見八犬伝 全4巻』(滝沢馬琴〈著〉、浜たかや〈著〉、山本タカト〈イラスト〉、偕成社、2002)
春のお彼岸から秋のお彼岸へと季節は移ろう。
古河は相方の実家に近く、実家のついでみたいな展開にならざるを得ず、なかなか機会がなかった。
古河城は平安末期または鎌倉初期の築城とされ、室町時代に古河公方・足利成氏が本拠として以降、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに将軍の日光社参時の宿としても機能したが、明治の廃城令により廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川改修工事により残された城跡も大半が消滅。
遺構としては、頼政神社(錦町)、桜町曲輪北側土塁(桜町)、古河歴史博物館(出城(諏訪曲輪)跡)(中央町)、福法寺山門(中央町)、坂長(中央町、次回掲載)などがある。

古河歴史博物館の駐車場に車を止める。

まだまだ残暑厳しく遺構巡りは難しそうだが、今回は下見ということで。
歩き始めてすぐ、武家屋敷風の板塀と長屋門が出現。

「鷹見泉石記念館」とある。
“入場無料”とも。

母屋は竹林に囲まれた藁葺きの趣ある武家屋敷である。

鷹見泉石(1785-1858)は江戸時代の蘭学者であり、家老として藩主・土井利位に仕えた古河藩士。譜代大名として代々幕府の要職を歴任した藩主に近侍して全国各地へ同行し、職務の補佐に務めた。
対外危機意識の高まる幕末、早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努めた。
また、主君・土井利位が雪の結晶を観察してまとめた『雪華図説』の編集にも携わる。

――鷹見泉石記念館は古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、隠居後もっぱら蘭学にいそしんだ鷹見泉石が最晩年を送った家と伝わります。建物は寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の御三階櫓を造ったときの余材を使って建てたと伝えられます。もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものでした。(古河市HP「鷹見泉石記念館」より)



1990年、改修して「鷹見泉石記念館」として開館。
現在はお茶席、雛飾りや5月人形などの飾り付けのほか、映画・ドラマ・CMの撮影などにも活用されているようだ。

勝手口を出たところにある井戸の向こうに塀と門があり、その先は別施設となる。
(奥原晴湖画室「繍水草堂」👇へつづく)

[DATA]
鷹見泉石記念館
茨城県古河市中央町3-11-2

[Today's recommendation]

https://youtu.be/Qggz2aunXMc?si=_DwJwJOPYBe5a96L



2023.09.20 奥原晴湖画室「繍水草堂」/茨城県古河市中央町3-11


奥原晴湖(1837-1913)は古河出身の南画家で、東京上野や埼玉県熊谷などを活動の拠点とした。

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晴湖没後、主を失った画室は、晴湖のおいに当たる池田多喜雄氏によって誕生地である池田家の屋敷地内に移される(1929年)。2008年、晴湖の子孫に当たる故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄付申し入れがあり、歴史博物館南側に移築された。
(つづく)

都内3位の広大な境内を構える 【大宮八幡宮】
2023.03.29
最近、寺社仏閣の記事が多いようにみえるため誤解されると具合が悪いのでときどきお断りしているが、自分は信仰心の篤い人間ではなく、信仰の対象というより観光資源としての寺社に興味がある。
庶民観光の起源は“おかげ参り”とされるが、江戸時代の庶民も信仰心というより参拝後の“お楽しみ”目当てに伊勢に参りたがったらしい。
いわゆる“精進落とし”である。
まあ自分のような小心者に遊郭遊びなど想像もつかないが、精進料理の饗応などにあずかってみたいとは思う。
動機はそんな俗物根性であり、本来、寺社そのものより門前町を対象とすべきだが、それもまた衰退著しい存在。

“門前町”でググッてみた。
――門前町(もんぜんまち)とは、有力な寺院・神社の周辺に形成された町のこと。特に神社の場合は、鳥居前町(とりいまえまち)という。大規模で多くの参詣者を集める神社や寺院の前に、社寺関係者および参拝客を相手にする商工業者が集まることによって形成される。(「門前町」Wikipediaより、最終更新2023年1月8日15:42)
主な門前町として、東京では浅草(浅草寺)、上野(寛永寺)、池上(本門寺)などが挙げられている。
一方、その記事では鳥居前町を分けて扱っており、そちらの代表として湯島(湯島天満宮)、亀戸(亀戸天神社)……、大宮(大宮八幡宮)、ん…?
大宮(杉並区と書いてある)ってどこだべ ( ̄ー ̄?).....??

大宮八幡入口交差点(表参道入り口)
――というのが2年ほど前。
気になるのですぐに調べて行ってみた。
善福寺川右岸の段丘上、和田堀公園の対岸に広大な境内を有するそれは堂々たる神社であった。

長い表参道は国府道でもある

一之鳥居

二之鳥居

正参道
天喜年中(1053〜57)、前九年の役平定の勅命を受けた鎮守府将軍 源頼義が奥州に赴く途次、この地で八条の白雲の瑞祥を見、奥州平定後の1063(康平6)年、京都・石清水八幡宮の分霊を勧請し創建したとされる。

二之鳥居をくぐって振り返ってみた
大宮氷川神社、秩父神社とともに武蔵国三大宮の一つ。
江戸時代に隆盛した八八幡詣(ややはたもうで)の江戸八所八幡の一つでもある。
ちなみに八八幡詣は、8社(富岡八幡宮・市谷亀岡八幡宮・穴八幡宮・大宮八幡宮・鳩森八幡神社・金王八幡宮・御田八幡神社・西久保八幡神社)、15里ほど(約60km)の行程を一日で回ったという。
さすがにキビしそうだが、気になる情報。


正参道から神門へ

笹の輪くぐりの神事が行われている

神門

本殿
敷地面積(約4万9500㎡)は、明治神宮(約70万㎡)、靖国神社(約9万2500㎡)に次いで23区内で第3位。
東側には600mを超える表参道 / 正参道を構え、茶室、結婚式場、幼稚園… とさまざまな付帯施設を備え賑わう境内。
神社自体はまことに立派である。

が、周辺に門前町としての歴史的風致は感じられない。
上記記事では何をもって“主な鳥居前町”としているのか謎であるが、あるいは近年急速に衰退したのかもしれない。
これも時代の趨勢であろうか。

南参道

南大鳥居
寺社(門前町・鳥居前町)めぐりはかつての隆盛をしのぶ旅。
ところで、門前町といえば“門前そば”だが、長い表参道の入り口には“門前〇〇そば”が…。
(つづく)

[DATA]
大宮八幡宮
東京都杉並区大宮2-3-1
https://www.ohmiya-hachimangu.or.jp/
[Today's recommendation]

https://youtu.be/PziLvqpvJe8




門前〇〇そば(次号予告)
最近、寺社仏閣の記事が多いようにみえるため誤解されると具合が悪いのでときどきお断りしているが、自分は信仰心の篤い人間ではなく、信仰の対象というより観光資源としての寺社に興味がある。
庶民観光の起源は“おかげ参り”とされるが、江戸時代の庶民も信仰心というより参拝後の“お楽しみ”目当てに伊勢に参りたがったらしい。
いわゆる“精進落とし”である。
まあ自分のような小心者に遊郭遊びなど想像もつかないが、精進料理の饗応などにあずかってみたいとは思う。
動機はそんな俗物根性であり、本来、寺社そのものより門前町を対象とすべきだが、それもまた衰退著しい存在。

“門前町”でググッてみた。
――門前町(もんぜんまち)とは、有力な寺院・神社の周辺に形成された町のこと。特に神社の場合は、鳥居前町(とりいまえまち)という。大規模で多くの参詣者を集める神社や寺院の前に、社寺関係者および参拝客を相手にする商工業者が集まることによって形成される。(「門前町」Wikipediaより、最終更新2023年1月8日15:42)
主な門前町として、東京では浅草(浅草寺)、上野(寛永寺)、池上(本門寺)などが挙げられている。
一方、その記事では鳥居前町を分けて扱っており、そちらの代表として湯島(湯島天満宮)、亀戸(亀戸天神社)……、大宮(大宮八幡宮)、ん…?
大宮(杉並区と書いてある)ってどこだべ ( ̄ー ̄?).....??

大宮八幡入口交差点(表参道入り口)
――というのが2年ほど前。
気になるのですぐに調べて行ってみた。
善福寺川右岸の段丘上、和田堀公園の対岸に広大な境内を有するそれは堂々たる神社であった。

長い表参道は国府道でもある

一之鳥居

二之鳥居

正参道
天喜年中(1053〜57)、前九年の役平定の勅命を受けた鎮守府将軍 源頼義が奥州に赴く途次、この地で八条の白雲の瑞祥を見、奥州平定後の1063(康平6)年、京都・石清水八幡宮の分霊を勧請し創建したとされる。

二之鳥居をくぐって振り返ってみた
大宮氷川神社、秩父神社とともに武蔵国三大宮の一つ。
江戸時代に隆盛した八八幡詣(ややはたもうで)の江戸八所八幡の一つでもある。
ちなみに八八幡詣は、8社(富岡八幡宮・市谷亀岡八幡宮・穴八幡宮・大宮八幡宮・鳩森八幡神社・金王八幡宮・御田八幡神社・西久保八幡神社)、15里ほど(約60km)の行程を一日で回ったという。
さすがにキビしそうだが、気になる情報。


正参道から神門へ

笹の輪くぐりの神事が行われている

神門

本殿
敷地面積(約4万9500㎡)は、明治神宮(約70万㎡)、靖国神社(約9万2500㎡)に次いで23区内で第3位。
東側には600mを超える表参道 / 正参道を構え、茶室、結婚式場、幼稚園… とさまざまな付帯施設を備え賑わう境内。
神社自体はまことに立派である。

が、周辺に門前町としての歴史的風致は感じられない。
上記記事では何をもって“主な鳥居前町”としているのか謎であるが、あるいは近年急速に衰退したのかもしれない。
これも時代の趨勢であろうか。

南参道

南大鳥居
寺社(門前町・鳥居前町)めぐりはかつての隆盛をしのぶ旅。
ところで、門前町といえば“門前そば”だが、長い表参道の入り口には“門前〇〇そば”が…。
(つづく)

[DATA]
大宮八幡宮
東京都杉並区大宮2-3-1

[Today's recommendation]

https://youtu.be/PziLvqpvJe8




門前〇〇そば(次号予告)
Go To お城 【忍城跡】
2022.10.30
日曜の朝、普通に起きて、ごはん食べて、コーヒー淹れて、気象予報士の南さんのダジャレに失笑を漏らしつつ、「さて、どうしようか」という話になる。
日曜日に近場観光というのが最近のマイブーム。
その行き先をどうするか… という話である。
前日までに行き先を決めるという努力目標はあるが、なかなかそうはいかない。
吾輩の辞書に計画性の文字はない。
「前にチラッと話が出たなんとか城というのは?」
「忍城のこと?」
ということで、行き先は埼玉県行田市の忍城(おしじょう)に。

伝進修館移築表門
9時出発で11時には忍城に隣接する行田市郷土博物館の駐車場に。
計画性はアレだが、機動性はある。
郷土博物館の第1駐車場から伝進修館移築表門をくぐる。

出かける前に交通アクセスや駐車場を調べるのにちらっと見たネット情報には立派な天守閣の写真があった。
駐車場の説明看板によると、このあたりはすでに本丸ということらしいので、天守閣のような大規模構造物が目につかないはずはないと思うんだが…?

2つ目の門をくぐった先に、立派な鐘楼がある。
「史跡 忍城の鐘」。

振り向くと、ようやくそれらしい建物を垣間見ることができる。
天守ではなく「御三階櫓」、先ほどからさんざん案内があったなぁ… と、ようやく気付いた。

――関東七名城の一つとされる忍城は、室町時代の文明年間(1469年~1486年)の初め頃に築城されました。時は戦国時代の終わり、豊臣秀吉の関東平定に際して、石田三成らによる水攻めにも果敢に耐えたことから「浮き城」の別名が生まれたと伝えられています。現在の忍城御三階櫓は、明治維新の際に取り壊されたものを再建したもので、最上階からは市内の景色が一望できます。(行田市観光NAVI)

映画『のぼうの城』の舞台… といえば、ピンとくる人も多いのかもしれない。
世事に疎い自分は、そんな映画のタイトルすら聞いたことなかったが。

高麗門
もう一つ門をくぐると水濠になっていて、御三階櫓がようやくその全容を現す。



ぐるっと一周して、表門に戻る。

その先のさっき見た(3枚目写真)竹林の先に少し進むと御三階櫓が見える。
手前の渡り廊下で博物館とつながっているらしい。

入館料を払って博物館へ。
渡り廊下を通って御三階櫓へ入り、3階まで上ることができる。

館内は撮影禁止なので写真はないが、再現建造物である櫓の内部はごく普通のビルディングで絵柄的に面白みはない。
それでも外観は十分見応えがあり、わざわざ行く価値はあると思った。
(つづく)

「浮き城の径」より
[DATA]
忍城跡
埼玉県行田市本丸17-23
https://www.gyoda-kankoukyoukai.jp/spot/530
[Today's recommendation]



https://youtu.be/7WMrQe87gRk
日曜の朝、普通に起きて、ごはん食べて、コーヒー淹れて、気象予報士の南さんのダジャレに失笑を漏らしつつ、「さて、どうしようか」という話になる。
日曜日に近場観光というのが最近のマイブーム。
その行き先をどうするか… という話である。
前日までに行き先を決めるという努力目標はあるが、なかなかそうはいかない。
吾輩の辞書に計画性の文字はない。
「前にチラッと話が出たなんとか城というのは?」
「忍城のこと?」
ということで、行き先は埼玉県行田市の忍城(おしじょう)に。

伝進修館移築表門
9時出発で11時には忍城に隣接する行田市郷土博物館の駐車場に。
計画性はアレだが、機動性はある。
![]() | ![]() | ![]() |
郷土博物館の第1駐車場から伝進修館移築表門をくぐる。

出かける前に交通アクセスや駐車場を調べるのにちらっと見たネット情報には立派な天守閣の写真があった。
駐車場の説明看板によると、このあたりはすでに本丸ということらしいので、天守閣のような大規模構造物が目につかないはずはないと思うんだが…?

2つ目の門をくぐった先に、立派な鐘楼がある。
「史跡 忍城の鐘」。

振り向くと、ようやくそれらしい建物を垣間見ることができる。
天守ではなく「御三階櫓」、先ほどからさんざん案内があったなぁ… と、ようやく気付いた。

――関東七名城の一つとされる忍城は、室町時代の文明年間(1469年~1486年)の初め頃に築城されました。時は戦国時代の終わり、豊臣秀吉の関東平定に際して、石田三成らによる水攻めにも果敢に耐えたことから「浮き城」の別名が生まれたと伝えられています。現在の忍城御三階櫓は、明治維新の際に取り壊されたものを再建したもので、最上階からは市内の景色が一望できます。(行田市観光NAVI)

映画『のぼうの城』の舞台… といえば、ピンとくる人も多いのかもしれない。
世事に疎い自分は、そんな映画のタイトルすら聞いたことなかったが。

高麗門
もう一つ門をくぐると水濠になっていて、御三階櫓がようやくその全容を現す。



ぐるっと一周して、表門に戻る。

その先のさっき見た(3枚目写真)竹林の先に少し進むと御三階櫓が見える。
手前の渡り廊下で博物館とつながっているらしい。

入館料を払って博物館へ。
渡り廊下を通って御三階櫓へ入り、3階まで上ることができる。

館内は撮影禁止なので写真はないが、再現建造物である櫓の内部はごく普通のビルディングで絵柄的に面白みはない。
それでも外観は十分見応えがあり、わざわざ行く価値はあると思った。
(つづく)

「浮き城の径」より
[DATA]
忍城跡
埼玉県行田市本丸17-23

[Today's recommendation]



https://youtu.be/7WMrQe87gRk